法輪寺の概要

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法輪寺の縁起

法輪寺とは元々天正年内(1573~1595年)より明治初頭に至るまで現在の立里の荒神社の別当寺として
法灯絶やすことなく信仰者の心の支えになっておりました。
立里の荒神社とは、お大師様が高野山上に伽藍を開基し給う為の地鎭作法せしめし時、
俄かに天地振動し東の方より黒雲たなびき其中に異類異形の夜叉神顕れ大師の御建立を防げんと種々の障碍なさしめ、お大師様に
『我はこれ荒神ヶ丘に住む神也、我別に神体なし、汝は則一切衆生本有俱生障の惑貧瞋痴の三毒にして
一切衆生の善根功徳を障うる神なり、我に九億九万八千五百七十二神等の眷属ありて衆生の悪業力に因って、
彼の眷属を不信心の家に遺し日々に七難を起こし夜に七福を減らして貧窮無福の人となさしめ、
一切の善事を障うるなり。若し衆生有て、勇猛精進にして種の供具を備え、一心に我を祭らば速に本に帰し三宝荒神と現じ
一切の障碍悉く消滅す一切の諸願立所に満足せしめん、七難即滅七福即生は我第一の誓願なり、汝先我を供祭せば必ず大願成就すべしと云えり』
依て、お大師様は無二の信心を示し一枚の板に三宝荒神の御影を画きて本尊となし荒神供を修法され、
伽藍繁栄、密教守護の祈誓をなし給いて、檀上鬼門に荒神様の杜を観請され又、立里の荒神社は毎月参拝されて伽藍が繁栄しました。
時代は流れ安土桃山時代天正初頭に立里荒神社別当寺として法輪寺が創建されました。

同時代天文五年(1536年)に近江の国、俗姓は藤原氏、字は順良 後に高野山を豊臣秀吉から守った木食応其上人が生誕されました。
元々は武家に生をうけ武士として活躍されておられましたが天正元年(1573年)三十八歳の時高野山に入り出家され
十穀を絶ち木食行を十三年に渡り行われ又、根来寺が秀吉に攻められた折に、秀吉との和議に臨まれ高野山を戦火より守られただけでなく、
高野山復興援助を秀吉よりとりつけ金堂や大塔を建立されました。
高野山におられた天正七年(1580年)に一刀三礼にて彫られた荒神様を当時荒神社別当寺であった法輪寺に奉納され、法輪寺御本尊として長く奉祭されましたが
明治初頭に始った廃仏毀釈により、宝積院共々法輪寺も廃寺に追い込まれました。当時の名も無い僧侶によりご本尊が守られ
奈良県内に隠され難を逃れられました。時は流れ、昭和中頃一人の信仰者が現れました。
その名向井妙孝という名の法尼です。立里荒神様を信仰し苦行に耐え、人助けをされておられました。ある時、荒神様より霊示があり、
吾を迎えに来い。吾は奈良県の某所にて居るとの御指示でした。
この事により再び法輪寺ご本尊荒神様がこの世に再臨されました。現在の住職は向井法尼の孫弟子にあたります。

理念

-山川草木悉皆成仏-

これは涅槃経の一節で、この世に存在する生きとし生けるものは同じであり、仏性が宿るという意味です。
私たちはこの世界に住む人や動物、草木、土地に至るまで、すべてのものには命が宿っており、やがて成仏できるものだと考えています。

皆様が可愛がり愛したペット達にも魂があり、死後も生き続けます。
手厚く供養し、弔う事により加護の霊となって私達を見守ってくれます。
当寺では、境内にペット供養塔を設置し、永代納骨を中心に、葬儀・年忌法要を執り行っております。